長崎散策 風頭公園~亀山社中跡

趣味

はじめに

2021年NHK大河ドラマ、晴天を衝け、で幕末について描かれていることもあり、同じ時代を生きた歴史の登場人物、坂本龍馬の足跡を追ってみたい、と思い立ち、長崎散策として、風頭公園~亀山社中跡を巡ることにしました。長崎の地形上、急こう配、アップダウンが激しいこともあり、風頭公園までは、タクシーで向かい、そこを起点として、亀山社中跡に向けて、下っていく道筋で散策を開始しました。

風頭公園

風頭公園 展望台からの眺め

この日は天気がよく、風頭公園の展望台から、長崎市が一望できました。風頭公園まで、タクシーを使用しましたが、よくここまで、登ってこれたなぁ、思えるほど、高い位置から、長崎市を臨むことができます。

風頭公園展望デッキには、坂本龍馬像が鎮座しています。坂本龍馬も、この展望デッキの位置から、長崎市を眺めながら、これからの日本のことに、物思いにふけっている姿を想像しました。現在の令和の世に、坂本龍馬が生きていたら、どんなアクションを起こしていたのか、自分自身も物思いにふけりながら、散策をしていました。

龍馬通り

坂本龍馬と長崎

坂本龍馬は天保六年(1835)、土佐高知城下に生まれました。江戸で剣術や砲術等を修業したのち、武市半平太らが結成した土佐勤王党に加盟し政治活動を始めました。文久二年(1862)に土佐を脱藩し、幕臣・勝海舟に師事して航海術を学びます。慶応元年(1865)には長崎で「亀山社中」(のちの海援隊)を結成し、「薩長連合」や「大政奉還」といった大きな足跡を幕末の歴史に残しました。慶応三年(1867)十一月、当時長崎は、龍馬が最も活躍した傾向年間にその本拠を置いたところであり、今もゆかりの史跡が数多く残されています。

長崎市亀山社中記念館 パンフレットより

風頭公園をあとにし、亀山社中跡に向かう道すがら、竜馬通りを通り抜けました。

龍馬通りをはじめ、道のわきには、多数の階段が続いています。日常から、このような階段を上り下りしていれば、足腰の運動不足になることは皆無であるだろう、と思えます。現代は、車やバイク、といった移動手段がありますが、坂本龍馬が生きた時代には、無かったはずです。更に、スマートフォン・PCなどの、情報伝達手段も無かった。坂本龍馬が仲間同士でコミュニケーションを取るために、この階段・坂道を行き来していた姿を想像すると、肉体的にも、精神的にも、もの凄い体力があったことが感じられます。今の自分に、同じことが出来たか、、、自信がありません。

風頭公園からは標高が下がっても、道の途中からの眺めは素晴らしいです。向かいの山の中腹にも、住宅地が広がっている様子が観られます。

亀山社中

亀山社中とは

日本初の商社とされる亀山社中は、慶応元年(1865)、薩摩藩等の援助により坂本龍馬が中心となって組織されました。社中のメンバーには神戸海軍操練所出身者が多く、航海技術を生かして物資の運搬や貿易の仲介を行いました。特に当時反幕府の立場にあった長州藩に対し、薩摩藩名義で武器や艦船の購入をあっせんするなど、薩長連合へとつながる大きな役割をはたしました。亀山社中の名は、彼らが最初に拠点を構えた地「亀山」と、仲間・結社を意味する「社中」をあわせてそう呼ばれました。

長崎市亀山社中記念館 パンフレットより

龍馬通りを通過した後、亀山社中の跡に到着しました。

亀山社中記念館 展示品 ※撮影許可エリアでの撮影
亀山社中記念館 展示品 ※撮影許可エリアでの撮影
亀山社中記念館 展示品 ※撮影許可エリアでの撮影
亀山社中記念館 展示品 ※撮影許可エリアでの撮影

上記、写真以外にも、坂本龍馬をはじめ、亀山社中メンバーのゆかりの品が展示されています。山の中腹にある、この場所で、海運業を中心とした、ビジネスの作戦を立てている、社中メンバーを想像できます。現在の日本の経済発展のトリガーの一つであったことを考えると、感慨深いものを感じました。また、現代風にいうと、マイクロソフトの創業者、ビル・ゲイツが自宅のガレージで、ひっそりとプログラミングをしていた姿を重なります。

竜馬のぶーつ

亀山社中の近くには、龍馬のぶーつ、のオブジェが展示されています。展示されている “ぶーつ ” は想像以上に大きく、余裕で、靴を履いたまま、“ ぶーつ ” の中に足を入れることが出来ます。

私も、“ ぶーつ ” の中に足を入れ、龍馬になった気分で、長崎の町の眺めつつ、次の場所に向かって、長崎散策、歩みを進めました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました