はじめに
高野山散策2日目、高野山エリアの西端から順に、「大門」、「金剛峯寺」の順に参拝を進めてきました。次なる参拝場所として、朱色の根本大塔が有名な、「壇上伽藍」を訪れました。本記事では、「壇上伽藍」を参拝した様子について、ご報告致します。
伽藍とは梵語(サンスクリット語)のサンガ・アーラーマの音訳で、本来僧侶が集う修業をする静寂清浄な所という意味です。
高野山金剛峰寺は816(弘仁7)年、弘法大師さまによって開創されました。
お大師さまは、高野山の造営にあたり壇上伽藍からお始めになり、密教思想に基づく金堂、大塔、西塔、僧房等の建立に心血を注がれました。
大伽藍 パンフレットより引用
中門の様子
一山の総門である大門に対して、伽藍の正門として南側入口には中門が経つ。御開創間もない819年の創建。以来、他の堂塔同様に焼失・再建を繰り返す。1843年の焼失以来、礎石を残すのみであったが、2015年(平成27年)の高野山開創1200年記念大法会を期して、伝統的な様式・工法で再建された。焼失を免れた持国天・多聞天に新たに増長天・広目天を加えて、四天王を安置する。
大伽藍 パンフレットより引用
金堂の様子
高野山一山の総本堂で、年中行事の大半がここで勤修される。本尊と両部曼荼羅を修法する3壇をもつ密教の密教の大堂である。
大師私願の堂として造営が進められ、完成後は嵯峨天皇御願の堂とされた。現在の堂は1932(昭和7)年再建、1934(昭和9)年落慶、四隅の八供養菩薩と裏堂の壁画は木村武山画伯の筆、両部曼荼羅は平清盛が自らの額を割った皿で中尊に描かせた「地曼荼羅」である。
大伽藍 パンフレットより引用
六角経蔵の様子
1159年、皇后であった美福門院得子が夫の鳥羽上皇の菩薩を弔うために創建。紺色金泥一切経を納置するとともに、一切経会料として紀伊国荒川壮を寄進した。金泥一切経蔵、荒川経蔵とお呼ばれる。現在の蔵は1934(昭和9年)年の再建。
大伽藍 パンフレットより引用
御社の様子
高野山開創にあたり、819年に大師は、結界守護の為、丹生・高野(狩場)両大明神を現在の地に勧請した。当山の地主神である丹生・高野両明神を祭る本殿2社、十二王子及び百二十半神を祀る総社の3社から成る。後に行勝上人が気比明神、厳島明神を勧請し四社明神とした。現在の社殿3棟(重要文化財)は1522年の再建である。
一の宮 : 丹生都比売命・気比明神
二の宮 : 高野明神・厳島明神
総 社 : 十二王子・百二十半神
大伽藍 パンフレットより引用
山王院の様子
御社の拝殿で1171年以前の創建。現在の堂は1845年の再建である。旧暦5月1~2日には波切不動を奉安しての夏季祈り、旧暦5月3日には学童の最終階梯である竪精の厳儀が奉修される。また、毎月16日に「法楽論議」が勤修される。
大伽藍 パンフレットより引用
西塔の様子
887年、光孝天皇の勅命により、当山二世真然僧正が、大師の遺された「御地図」に従って大塔に続いて建立。現在の塔は1834年の再建。塔前の石灯篭は医聖 華岡青洲の寄進にかかる。
大伽藍 パンフレットより引用
孔雀堂の様子
1200年、延杲大僧正が干天に雨を祈って成就し、後鳥羽上皇の賞賜として建立。祈雨の本尊である孔雀明王をお祀りする。現在の堂は1984(昭和59)年の再建。
大伽藍 パンフレットより引用
准胝堂の様子
973年以来の創建。本尊准胝観音、大師得度剃髪の際、自らの本尊としてお祀りされたと伝えられる。現在の堂は1883(明治16)年の再建。
大伽藍 パンフレットより引用
御影堂の様子
元は大師の持仏堂であったが、ご入定後、実恵僧都が師の御影を安置する堂とした。御影は真の持仏堂であったが、ご入定後、実恵僧都が師の御影を安置する堂とした。御影は真如親王が大師の生身を写され、大師御自らのご開眼にかかる。最も尊厳を尊ぶ御堂である。旧暦3月21日旧正御影供の前日、御逮夜の時には年に一度だけ内拝が出来る。
大伽藍 パンフレットより引用
大塔の鐘の様子
大師が発願され、第二世真然大徳の代に完成。焼失して三度ほど改鋳された。現存は1547年の鋳造で直径7尺、重量1600貫(約6トン)、高野四郎の名で親しまれている。1日5回、計108の鐘の音を響く。
大伽藍 パンフレットより引用
根本大塔の様子
伽藍の中心の塔として816年高野山改造の頃より着手し、大師と真然の二代を費やして887年頃完成した。高さ約50メートル 四面30メートル中央に胎蔵大日如来、四方に金剛界四仏、周囲16本の柱には堂本印象画伯筆の十六大菩薩を配して曼荼羅を立体に顕す。壁には同画伯筆の八祖大師を描く。現在の建物は1937(昭和12)年再建、外壁塗り替えは1996(平成8)年完成。
大伽藍 パンフレットより引用
愛染堂の様子
1334年後醍醐天皇の勅願により天下泰平を祈るため不断愛染護摩並びに長日談義を修する目的で建立された。本尊は同天皇等身の愛染明王で現在の建物は1848年のもの。
大伽藍 パンフレットより引用
大会堂の様子
1175年皇女五辻斎院頌子が父の鳥羽上皇追善のため創建。東別所にあったが、西行法師が同内親王に勧め、長日普段談義の学堂として壇上に移し蓮華乗院と称した。後に法会の集会の堂となった。現存は1848年のもの。
大伽藍 パンフレットより引用
三昧堂の様子
928年、金剛峯寺座主済高大僧都の創建。もとは本中院谷の東南院にあったが、1171年西行法師が現在地に移建した。堂前には法師が植えたとされる「西行桜」がある。現在の建物は1816年再建。
大伽藍 パンフレットより引用
東塔の様子
1127年後醍醐寺勝覚権僧正が白河上皇の御願により創建。尊勝佛頂尊と不動明王。降三世明王を祀る。1984(昭和59)年に再建。
大伽藍 パンフレットより引用
不動堂の様子
国宝(指定昭和27年3月29日)
1198年一心谷に行勝上人が創建。現在の堂は14世紀初頭再建、鎌倉時代の和様建築で、平安期住宅様式を仏堂建築に応用したもの。1908(明治41)年現在地に移された。1996(平成8)年、解体修理が行われた。
大伽藍 パンフレットより引用
最後に
歴史の教科書に掲載されていた記憶がある、高野山のシンボルの一つである「根本大塔」を生で観ることが出来ました。美しい朱色で包まれており、教科書の写真から想像した以上大きく、その姿に圧倒されました。また、大伽藍内には、様々なお堂があり、それぞれの創建時期が平安時代後期から鎌倉時代と、バラつきがあるため、素人目にも、建築様式の変化が分かり、時代の流れを感じることが出来ました。
「壇上伽藍」の参拝を終えた段階で、12時を回っていました。この後、2日目の高野山参拝は後半戦に突入していきます。
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