はじめに
高野山散策、最終日。2日目の宿泊場所、「大圓院」を9時頃出発し、3日目がスタートしました。方向として、高野山エリアの入口、「女人堂」に向かいながら、散策を始めました。その途中に、「徳川家霊台」を参拝しました。本記事では、「徳川家霊台」を訪れた際の様子について、ご報告致します。
重要文化財 徳川家霊台
昔高野山の聖方の本寺であった大徳院の裏山に二字の瓜二つの建物が現存する。各々三間四面宝形造であった銅瓦で葺き頂上に露盤をのせる。前に唐破風の向拝がつく。一辺の長さ6~7mの小さい堂であるが、彫刻、彩色、蒔絵、飾金具などで善美をつくす。構造材に寛永十八年(1641)の墨書銘がある。落慶は寛永二十年(1643)であるという。これらの両道は夫々透塀い囲まれ唐門から出入りする。建物は唐様(禅宗様式)の手法による。
和歌山県教育委員会・総本山金剛峯寺 掲示資料より引用
境内の様子
石が敷き詰められた参道を進み、受付で拝観料を納めました。その後、石段を登り、「徳川家霊台」が建立されているエリアへ向かいました。
建立
紀伊続風土記によると、寛永二十年(1643年)に造営落成とあります。秀忠霊屋の構造材に寛永十年という墨書があるので、建造だけで十年、着工から数えるとそれ以上の歳月が費やされたと言われています。
金剛峯寺 徳川家霊台 パンフレットより引用
縁起
霊峰高野山は開創以来、宗派にとらわれることなくあらゆる階層の人々の心の憩いの場、魂(こころ)の安息所として一大仏都をなしてきました。徳川家霊台は、この霊場に家康公と秀忠公の御霊をまつるため三代将軍家光公によって創建されたものです。
金剛峯寺 徳川家霊台 パンフレットより引用
「徳川家霊台」を囲む石製の柵には、長い年月を感じることが出来るほどの、色のグラデーションを観ることが出来ました。「徳川家霊台」が建立されてから、今日まで、350年以上、大切に保存されてきた
歴史の重みを感じました。
外観
左右同じ二棟の建築物からなり、向かって右側が家康霊屋、左が秀忠霊屋です。細部にいたるまで彫刻や飾金具など技法をこらした装飾がほどこされ、目を見張るばかりの建築美を誇っています。
金剛峯寺 徳川家霊台 パンフレットより引用
重要文化財指定
家康霊屋、秀忠霊屋ともに三間四方の一重宝形造で、江戸時代の代表的霊廟建築として重要文化財に指定されています。周囲には縁と勾欄がめぐり、正面向拝は唐破風、銅瓦葺の屋根には露盤を頂き、内部には壁面、天井、厨子にいたるまで金銀蒔絵・極彩色飾金具などで華やかに飾られています。
金剛峯寺 徳川家霊台 パンフレットより引用
徳川秀忠霊屋の様子
細やかなところまで、丁寧に彫刻されている拝殿。その後ろに鎮座している、「秀忠霊屋」は多くの彫刻が施され、金色の飾金具に包まれていました。その姿に謙虚さを感じつつも、日光東照宮を想起するような豪華さを観ることが出来ました。
徳川家康霊屋の様子
「秀忠霊屋」の右側に鎮座している「家康霊屋」。「秀忠霊屋」と同様、細部まで意識されていることが肌で伝わる程、丁寧な彫刻が多数、施された姿を観ることができました。高野山エリア内でも特に、優美な造りな社であると感じました。
最後に
高野山開山より、約800年後に建立された「徳川家霊台」でありますが、現在、2022年からさかのぼること、約350年。高野山エリアの散策を続けて来て感じたことは、平安時代中期から江戸時代まで、約800年間、それぞれの時代の建築様式、また、彫刻の美しさを同じタイミングで目の当たりに出来ていることが凄く貴重な体験だと、強く思いまいた。各時代の人々の小さな努力の積み重ねを、現代に生きる自分が体験できている。コツコツと積み重ねことの大切さ、希有さを改めて実感しました。このようかことを思いつつ、「徳川家霊台」を後にしました。この後、高野山エリアの入口、「女人堂」を目指して、歩き始めました。
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